奉神門について
「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」入る最後の門です。1562年に石造欄干(せきぞうらんかん)」が完成したという記録があることから創建はそれ以前だとされています。その後1754年に中国の制に倣い改修しました。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4年)に外観が復元されました。現在は公園管理のための施設として利用されています。別名「君誇御門(こみほこりうじょう)」ともいう。向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類、たばこ等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式の時などに使われました。3つの門のうち、中央は国王や中国からの冊封使等の限られた身分の高い人だけが通れる門です。それ以外の役人は両側の門から入城しました。ですから、中国の冊封使のように真ん中の門から入って、その時代の空気を感じてみるのも良いと思いませんか。
御庭(うなご)説明
御庭では元旦の儀式など重要な祭事や、中国からの使者を迎える重要な儀式をはじめとした外交上の儀礼が行われました。敷かれているタイルは「磚」(ぜん)という敷瓦で、この色の違いの列は儀式の時に諸官が位の順に並ぶ目印でした。中央の道は「浮道」(うきみち)といい、国王や冊封使など限られた人のみ通ることができました。
首里城は琉球王国時代、政治、外交、文化の中心地として威容を誇っていました。
荘厳な城門をいくつも通ると現れる正殿は、琉球王国時代最大の建物です。中国と日本の築城文化を融合した。独特の建築様式や石組み技術には文化的・歴史的価値があるとされ、世界文化遺産に登録されました。
琉球王国は、1429年から1879年までの450年の間に渡り存在した王政の国でした。中国や日本、東南アジアとの盛んな交易により、琉球独自の文化が育まれました。
正殿正面の石階段の両脇の龍の彫刻を「大龍柱」(だいりゅうちゅう)といい、その奥にはもう一対の「小龍柱」(しょうりゅうちゅう)があります。そのほかにも、屋根や柱に多数の龍があり、首里城の中心的な建物にふさわしい装飾がされています。
首里城は沖縄の歴史・文化を象徴であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものと言われています。
首里城は小高い丘の上に立地しており、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられています。いくつもの広場があり、また信仰上の聖地も存在します。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴でした。沖縄の他のグスクは首里城との競争に敗れて滅んでしまったが、首里城はグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたのでした。
首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成しています。正殿をはじめとする場内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としています。西を正面とする点は、首里城の持つ特徴のの一つです。中国と日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国と日本の建築文化の影響を受けています。正殿と南殿、北殿はその代表的な例です。
首里城は王様とその家族の生活する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部もありました。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通して、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもありました。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術、工芸の専門家が数多く活躍していました。首里城は文化芸術の中心地でもありました。
1879年(明治12年)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われました。1930年には大規模修繕が行われました。1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼しました。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後に復元事業が推進され、現在に及んでいました。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。2000年12月には、首里城が世界遺産に登録されました。
「北(にし)の御殿(うどぅん」とも呼ばれ、平常は王府の中央政庁として大勢の役人が出入りしていました。また中国からの冊封使をもてなす宴が催されていました。江戸時代末期に、アメリカ海軍のペリー総督が黒船を率いて琉球を訪れたときにも、ここで式典が行われました。
創建は16世紀初めで、中国風の建物となっています。
平屋部分が番所で、2階建ての部分が南殿です。
番所は城内の取次ぎをする受付的な役割をもつ建物でした。南殿は別名「南風(はえ)の御殿(うどぅん)ともいい、日本式の年賀、節句などの行事、薩摩藩の役人の接待が行われました。創建は17世紀前半で、日本風の建物となっています。二つの建物とも彩色はされていませんでした。
「久慶門(きゅうけいもん)」は別名「ほこり御門」とも呼びます。歓会門が正門であるのに対し、ここは通用門で、主に女性が利用したと言われています。国王が寺院を参詣したり、浦添から以北の地方へ行幸(ぎょうこう)するときなどに使用された門でした。創建は1477年から1526年(尚真王代 しょうしんおう)と言われています。また、1983年(昭和58年)に復元されました。
首里城見学の順路の関係から現在は出口専用となっていますが、当時は日常的に人々が出入りしていました。
門の左側に「寒水川桶川(すんがーひーじゃー)」と呼ばれる湧水があります。またここから左手には先に見た「龍樋」があります。すなわち、この辺りは城内に降った雨水が地下に浸透し、再び湧水としてでてくる場所でした。
首里杜館(すいむいかん)で午後3時半の遅い昼ご飯です。
首里杜館の一階にはレストラン首里杜があり、琉球料理が振舞われています。せっかく、沖縄に来たのですから、チェーン店などに行かずに、どっぷり沖縄の食を楽しみました。
私は個人的に「首里杜御膳」がお勧めです。私は残念ながら、確か売り切れだとかで、「首里城定食」を頼みました。写真は首里城定食です。本土では味わうことが少ない本格的な琉球の美味を味わうことができました。
この後は、ホテルに直行して明日の旅行の準備です。