首里城で沖縄(琉球)の歴史に触れる

首里城の写真ギャラリー

 午前中一杯かけて沖縄の戦跡を訪ねてきましので、午後は沖縄の歴史と自然に触れあいたいと思います。それで、旧海軍司令部壕公園を出て、首里城に行くことにしました。レンタカーでの所要時間は1時間弱でした。

 そして、首里城近くにある「県営首里城駐車場」に駐車しました。

 駐車場は地下式で、一般の乗用車は50台から116台と団体旅行のバスとの兼ね合いで収容台数の変更が行われています。地上に出ると「レストセンター首里杜館(すいむいかん)」があり、ビジターロビー、情報展示室、総合案内、レストラン、売店があります。情報展示室には各種の模型やパネル、ビデオ映像等で首里城について学ぶことができます。

 しかし、今回はそこに寄らずに首里城に行くことにしました。そのため、本来、首里城見学のスタートにされる「首里城 守礼門」を見逃してしまいました。ですから、首里城史跡観光の最初の写真は、世界遺産「圀比屋武御嶽石門」からとなります。 

守礼門のご案内

 今回は私の下調べ不足で見ることができなかった「守礼門」ですが、一応のご説明をさせていただきます。

 「守礼門」は、「礼節を守る」という意味があります。門には「守礼之邦(しゅれいのくに)」が掲げられています。その意味は、琉球は礼節を重んじる国です。

 また、守礼門は中国風の牌楼(ばいろう)という形式で建てられています。

 首里城の多くの城門や建物には「公式の名称」の他に、「別名」が付けらています。別名からは、当時の琉球の人々の文化や考え方が読み取ることができます。

 守礼門は古くは「首里門」と呼ばれましたが、民衆は愛称で「上の綾門(いいのあやじょう)」と呼んでいたそうです。それは「上の方にある美しい門」という意味です。

 守礼門は、1527~55年「第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)時代」に建てられ、1933年(昭和8年)に国宝にしていされたが、その後の沖縄戦で破壊されました。現在の門は1958年(昭和33年)に復元されたものです。2000年の記念紙幣2000円札の絵柄になっています。

圀比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 園比屋武嶽石門 レンタカー
世界遺産-琉球王国のグスク及び関連遺産群
東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 園比屋武御嶽石門 自然と戦跡 レンタカー
園比屋武御嶽石門の説明石碑

園比屋武御嶽石門の説明

 琉球石灰化で造られた建物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所です。形は門の形ですが、人が通る門ではなく、神への礼拝の門ともいえる場所です。門の上部に掛けられている扁額(へんがく)の内容から1519年「尚真王(しょうしんおう)時代」に建てられたことはわかっています。八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造したと伝えられています。また、琉球の石造り建造物の代表的なものであり、1933年(昭和8年)に国宝にしていされたが、沖縄戦で一部破壊され、1957年(昭和32年)復元されました。現在は国指定重要文化財と定められています。また2000年(平成12年)には世界遺産にも登録されました。

歓会門(城内入り口)看板

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 歓会門前広場 自然と戦跡 レンタカー
歓会門前の広場

 園比屋武御嶽石門を過ぎると、小さな広場に出てきます。正面には歓会門が見えてきます。

石に刻まれた城内全図と歓会門説明看板

公園利用案内

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 首里城 公園利用案内 自然と戦跡 レンタカー
公園利用案内

歓会門案内

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 歓会門案内 レンタカー 自然と戦跡
歓会門案内

開園時間 

 午前8時30分から

 夏期(3月1日から11月30日) 午後6時30分

 冬期(12月1日から2月末日) 午後6時まで

 

開園日

 年中無休

 

園内有料域

 正殿、北殿、南殿、番所、奉神門に囲まれた区域

 首里城の城郭内に入る第一の門です。中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」などを歓迎するという意味でこの名がつけられました。「あまへ御門(うじょう)」とも言います。「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」の意味があり、「歓会」はその漢訳です。

 門の両側の一対の獅子像「シーサー」は魔よけの意味を持っています。

 1500年前後創建。沖縄戦(1945年)で、焼失し1974年(昭和49年)に復元されました。


左側のシーサーと歓会門

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 歓会門 シーサー レンタカー
シーサー(魔よけの意味があります。)
東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 歓会門 自然と戦跡 レンタカー 
歓会門

 首里城の城郭内に入る第一の正門です。「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味です。当時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名がつけられた。

 首里城は外郭(外側城郭)と内郭(内側城郭)により二重に囲まれています。ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味します。

 創建は1477年から1500年ころ(尚真王代)で、沖縄戦で焼失したが、1974年(昭和49年)に復元された。門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓が載せてあります。このスタイルは久慶門(きゅうけいもん)、継世門(けいせいもん)と同じです。

 門の両側には「シーサー」という一対の石造の獅子像があるが、これは魔よけの意味で置かれています。


歓会門を通ると見えてくる風景

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 自然と戦跡 レンタカー
左側の下り通路
東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 自然と戦跡 レンタカー
右側の上り階段

 歓会門をくぐり抜けて進むと、二股の分岐点に差し掛かります。右上の階段の上には赤い門が見えています。しかし、左下の下りの通路には柵があり進むことはできないようになっていました。後でわかるのですが、左側の通路の先に見えているものは首里城見学後の帰路のための通路でした。

久慶門と龍樋・冊封七碑・瑞泉門説明看板


龍樋・冊封七碑・瑞泉門(右図の説明について)

 石段途中の右手に泉があります。龍の口から水が湧き出ていることから龍樋と名付けられています。龍の石彫刻は、今から約500年前の1523年に中国からもたらされた当時のままのものです。

 龍樋の水は、王宮の飲み水として使われました。また、中国からの使者「冊封使」が琉球を訪れた時、那覇港近くにあった宿舎「天使館」まで毎日この水が運ばれたと伝えられています。

 この周辺の石碑は、龍樋の水の清らかさを称賛した冊封使たちの書を刻んだもので、冊封七碑と呼ばれています。沖縄戦ではほとんどが破壊されましたが、拓本をもとに1996年(平成8年)に復元されました。

 石段上の門は「瑞泉門」です。その名は龍樋の水が瑞泉(りっぱな、めでたいの意味)と称えられたことに由来しています。別名「ひかわ御門(うじょう)」とも呼ばれています。「ひ」とは樋のことで、「かわ(川)」は沖縄では井戸や泉のことを指します。先ほどの歓会門とは異なり、双璧の石門の上に櫓が載っています。この形式は日本本土の主な城の門と共通しています。創建は1470年頃。沖縄戦で焼失し、1992年(平成4年)に復元されました。

龍樋

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 龍樋 自然と戦跡 レンタカー
龍樋(りゅうひ)

龍樋(りゅうひ)について

 

 「龍樋」は、龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられました。この水は王宮の飲料水として使われていました。また、中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が琉球を訪れた時、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水を運んだと言われています。

 

龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものです。

 

 



瑞泉門と右側のシーサー

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 瑞泉門 自然と戦跡 レンタカー
瑞泉門

「瑞泉門(ずいせんもん)」

 「瑞泉(ずいせん)」とは「立派な、めでたい泉」という意味です。門の手前右側にある湧水が「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられました。ここは第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」とも呼ばれます。

 「樋(ひ)」は川や泉から水を導く長い管、または溝、あるいは屋根の雨水を受けて地上に流す装置(掛け樋)等のことを指します。一方、沖縄で井戸や泉のことをすべて川(カワ、カー)と表現します。「ひかわ」とは、こうした表現を合わせた言葉で、フィージャーガーとも発音します。

 創建は1470年頃で沖縄戦で焼失しましたが、1992年(平成4年)に復元されました。門の両脇には一対の石獅子(いしじし)が並んでいます。これは魔よけの意味があります。
 瑞泉門は先に見たアーチ状の石門の歓会門とは異なり、双璧の門の上に直接櫓が載っています。このタイプの櫓門は日本本土の城門にも見ることができます。櫓の中央の「瑞泉」という扁額(へんがく)が琉球独特の持ち味を出しています。

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 シーサー 自然と戦跡 レンタカー
シーサー

「シーサー」

 門の両脇に設置されている「シーサー」は魔よけの意味があります。


漏刻門

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 福音伝道教団 江戸川区教会花壇 漏刻門 沖縄 首里城 自然と戦跡
漏刻門入り口
東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 福音伝道教団 沖縄 首里城 漏刻門 自然と戦跡
漏刻門の説明板

漏刻門について

 

 「漏刻(ろうこく)」とは中国語で「水時計」という意味です。この門は別名「かご寄せ御門(うじょう)」とも呼ばれています。当時、身分の高い役人はかごに乗って首里城に登城する際に、高官でも国王に敬意を表し、ここでかごから降りたことからのそのように呼ばれています。門の創建は15世紀ごろです。

 

 門の上にやぐらに水槽を設置し、水が流れる量で時間を図ったと言われています。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓をたたき、それを描いた別の役人が東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナおよび右掖門(うえきもん)で同時に大鐘を打ち鳴らし、城内及び城外に時刻を知らせた。

 

 この「漏刻」の制度は、1456年の朝鮮の記録に「(琉球のそれは)我が国のものと何らかわりない」と記されています。

 

漏刻門をくぐり抜ける風景

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 福音伝道教団 沖縄 首里城 自然と戦跡 
漏刻門をくぐる
東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 自然と戦跡 漏刻門 
漏刻門をくぐった先に続く通路

首里城・日陰台と広場

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 福音伝道教団 沖縄 自然と戦跡 首里城 日影台
日影台説明看板
東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 自然と戦跡 日影台前広場 
日影台前広場

日影台(にちえいだい)について

 写真は残念ながらありませんが、「漏刻門」の正面に置かれているのが「日影台(にちえいだい)という日時計です。当時からこの場所に置かれ、水時計の補助的な時計として使われました。

 

 1793年、従来の漏刻の水時計は不正確だとして、日時計の日影台を製作し設置したと伝えられています。以後、この時間制度は1879年(明治12年)の廃藩置県まで続いた。

日陰台前広場から見える沖縄市街と、万国津梁の鐘と供屋説明看板

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 自然と戦跡 首里城 日影台前広場
日影台前広場から見える眺め
東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 自然と戦跡 万国津梁の鐘と供屋説明看板
万国津梁の鐘と供屋説明看板

 万国津梁の鐘について

 この鐘は歴史資料では、1458年に首里城正殿に掛けられていたと記録されているが、具体的な設置場所が不明であるため、具体的な設置場所が不明であるため、当面この場所に設置されています。

 

 この場所の鐘は、沖縄県立博物館に収蔵されている「万国津梁の鐘」のレプリカです。鐘には「琉球国は南海の美しい国である、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の懸け橋として、貿易によって栄える国である。」という趣旨の銘文に刻まれており、当時の海洋王国としての誇らしい心意気が示されています。

 

廣福門

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 自然と戦跡 首里城 廣福門
廣福門 左からの写真
東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 自然と戦跡 廣福門
廣福門 右からの写真

「広福(こうふく)門」について

 「広福(こうふく)」とは「福を行き渡らせる」という意味です。「広福門(こうふくもん)」は別名「長御門(うじょう)」と呼ばれ、建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴です。

 

 門前は城内でも眺めの良いところで、眼前に広がる眺めにはハンタン山の緑を映す龍潬(りゅうたん)池や、沖縄県立芸術大学が見えます。

 

 広福門の創建年は不明です。明治末期頃に一時撤去されましたが、1992年(平成4年)に復元されました。

 

 琉球時代、この建物には神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていました。現在は、券売所として使われています。

 

下之御庭案内図と観光案内所

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 自然と戦跡 首里城 観光案内所(舞踏見学場)
観光案内所(舞踏見学場)
東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 自然と戦跡 下之御庭案内図
下之御庭案内図

「下之御庭(しちゃぬうなー)」について

 

「下之御庭(しちゃぬうなー)」とは、沖縄の表現で「下の庭」という意味です。

首里城正殿のある「御庭(うなー)」へは入る前の広場で、正殿前で行われる様々な儀式の控え場であり、正殿の建築工事の際には資材置き場として使用されました。現在は城内でのイベント等の際に利用されています。

「系図座」と「用物座」

 

 上の写真のテントの後ろに見えている建物です。「下之御庭」の西側にある建物で、「系図座(けいずざ)」と「用物座(ようもつざ)」という役所があった建物です。「系図座」は士族の家系図を管理していた役所です。「用物座」は場内で使用する物品、資材の管理を行った役所です。2000年に復元され、現在は休憩所と情報案内所として使用されています。

首里森御嶽

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 沖縄 首里城 自然と戦跡 首里森御嶽
首里森御嶽

首里森御嶽について

 

 城壁の手前にある礼拝所を「首里森御嶽(すいむいうたき)」と呼ばれています。「琉球開闢(かいびゃく)神話」によれば、神が造られた聖地であるとされています。また、城内にはここを含めて「十嶽(とたけ)」と呼ばれる10か所の礼拝所があったと言われています。

 

 琉球最古の歌謡集「おもろさうし」にも「首里森御嶽」に関する詩歌が多数登場します。1997年(平成9年)12月に復元されました。