平和祈念公園を午前10時40分頃出て国道331号線を車で走り、少し行くとひめゆりの塔がありました。午前10時50分に到着しました。お盆の時期ではありましたが、道路は空いていましたし、信号も少なく短時間で到着しました。ここでも沖縄の自然と戦跡に触れてみたいと思います。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)4月、沖縄に米軍が上陸し、熾烈な地上戦が展開しました。そのような中、当時沖縄に会った21の男女中等学校から生徒たちが動員され、戦場に送られたのです。女子学生は15歳から19歳で、主に陸軍病院等で看護活動にあたりました。男子学生は14歳から19歳で、上級生は「鉄血勤皇隊」に下級生は「逓信隊」に編成されました。
当時、真和志村安里にあった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女子学校からは、生徒222名、教師18名が南風原の沖縄陸軍病院に動員されました。そしてそのうち136名が戦場で命を落としたのです。両校から動員された生徒・教師たちを戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになりました。
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女子校には、それぞれの交友会誌があり、一高女は「乙姫」、師範は「白百合」と名付けられていた。両校が併置された際、交友会誌も一つとなり、その名前も併せて「姫百合」と名付けられました。ひらがなで「ひめゆり」と使われるようになったのは戦後のことです。
終戦の翌年(1946年)の一月、米軍の命令により旧真和志村の人々が糸満市米須に移動させられてきました。当時の真和志村の村長はひめゆり学徒の遺族でもあった金城和信氏でした。真和志村の村民は金城氏の呼びかけで遺骨の収集を始め、それらの遺骨を納骨するために2月に「魂魄の塔」を建立しました。戦後初の慰霊の塔でした。
同年4月5日、真和志村の村民は沖縄戦末期米軍のガス弾攻撃を受け、多くのひめゆり学徒や陸軍病院関係者が亡くなった伊原第三外科壕の上にもひめゆりの塔を建立。建立から2日後の4月7日に第一回慰霊祭が執り行われ、学徒隊の引率教師であった仲宗根政善先生が「いはまくら かたくもあらむ やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」の歌を霊前に捧げました。9日には、摩文仁に男子学徒を祀る「健児の塔」も建立し、魂魄の塔、ひめゆりの塔、健児の塔と合わせて平和を希求する三つの慰霊の塔としました。