左上の写真で分かるように幕僚室に入りました。右上の写真のように順路は右奥の階段を上がっていくようです。また、右上の写真にはいくつかり白い看板が張り付けてあります。
その白い看板の内容がよくわかるように、拡大したものを下の左右の写真に用意しました。
左下の写真には「自決された時の手りゅう弾の弾痕」とりあります。
右下の写真には「司令官室、作戦室に近いこの部屋には、幕僚が手りゅう弾で自決した時の破片の跡がくっきりと残っています。この部屋は当時のままの状態で公開されています。」とあります。
次の部屋は、「司令官室」です。先の「幕僚室」とは、通路を挟んで真向かいに位置します。「司令官室」の壁には「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」という大田司令官の辞世の句が残されています。
左の写真は司令官部屋入り口の様子。右下の写真は、辞世の句が記されている壁面、汚れを防ぐカバーがかけられています。右下の写真は、司令官室の全景です。
旧日本の軍隊では、統一した暗号を使用していたのではなく、海軍と陸軍で異なる暗号を使用していました。なお、同じ組織内でもその目的によって、異なる暗号を使用してたそうです。
たとえば、海上部隊の戦術用の乙暗号、航空通信のF暗号などです。
日本海軍は太平洋戦争時に用途別に20種以上の暗号を使用していましたが、重要通信はそのほとんどをD暗号と呼ばれるものを使用したそうです。
D暗号は1939年6月1日から導入されたそうです。
D暗号は連合国軍側に解読されていましたが、日本海軍の暗号チーム(軍令部第四部)は、D暗号に自信を持っていて、破られることはあり得ないとしていました。
そのため、山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機撃墜で有名な、「海軍甲事件」が発生しました。海軍甲事件とは、第二次世界大戦中の1943年4月18日に、前線を視察中の山本五十六海軍大将の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、山本五十六が戦死した事件です。日本側はその領域は日本軍の制空権があるとされ、少しの危機感もないとされました。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電されました。しかし、アメリカ側は事前に日本海軍の暗号通信を傍受し解読しており、山本五十六の視察の経路と予定時刻は把握されていました。そして待ち伏せ攻撃を行いました。その作戦名をアメリカ側は、ヴェンジェンス作戦と呼んでいます。
下にあるこの部屋の白い紹介板には、「この部屋が初めから医療室であったかどうかは不明ですが、生存者の話で、ここを中心にたくさんの負傷兵がいたというとこから、ここが医療室だと推定されます。
左の写真にある最後の電文を出した大田実司令官は、海軍における陸戦の権威者とされ、1932年(昭和7年)2月から4月にかけ、上海陸戦隊第5隊長として第一次上海事変に参戦しています。また2・26事件では陸戦隊指揮官佐藤正四郎の陸戦大隊長として東京へ出動しています。
沖縄戦では、海軍最先任者として、沖縄根拠地隊司令官を務め、米軍上陸時に約1万人の部隊を率い、沖縄本島小禄半島での戦闘を指揮しました。その後、米国の攻撃により司令部は孤立し、6月13日、大田は豊見城の海軍壕にて拳銃で自決しました。死後、海軍中将に特別昇進する。満53歳でした。
また、沖縄タイムズの記事によれば、2016年6月14日、沖縄戦で自決した太田実海軍司令官の四女昭子さんと八女八千代さんは辺野古のキャンプ・シュワブゲート前を訪れ、新基地建設に反対する集会に参加しました。そこで「平和のために頑張っている皆さんを見て、父も喜んでいると思う」と話されたそうです。太田実司令官は自決直前、海軍次官あてに「県民に対し後世特別のご高配を」との電文を打ったそうです。その父の遺志を胸に、戦後日本を生きてこられた二人の娘さんは、終戦から71年後も残る広大な米軍基地について、「何のために必要なのか。美しい沖縄を大切にしてほしい」と語られたそうです。
右上の写真の通路は壕内に、薄暗い通路が無数に張り巡らされ、迷路のようになっています。
また、その司令部壕は、左上の写真のつるはしにあるように、壕内はすべて「くわ」や「つるはし」を使ってすべて兵士たちの手彫りで掘られました。かまぼこ型に堀抜いた横穴をコンクリートと坑木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地でした。
玉砕の近い昭和20年6月頃には、この部屋は立錐の余地もないほど、兵士たちが入り立ったままで睡眠休息をとったと言われます。
旧海軍司令部壕には、上記の戦跡の他に、左の写真の「大田実司令官の電文」、左下の写真の「昭和20年6月4日から13日の小禄地区戦闘経過要図」、右下の写真は「米軍上陸全般図」の展示がされていました。